2017年

3月

29日

3月29日 子どもの虐待と高齢者福祉セミナーin東京

今回のセミナーでは、

①子どもに安心感を与えられない行為、不安を与える行為は虐待と捉えること。また、地域や社会全体で子育てをすることがいかに大事か。

②高齢者施設では、夢や自己実現のために自分の意思であらゆる行動を決定することが大事である。

など、非常に前向きな内容を学ばせていただきました。

 

 

2017年

3月

19日

3月19日 クロから学んだこと

今日はクロ(飼い犬)の命日です。“ペットロス”という言葉がありますが、私も4ヶ月経ってようやく、涙をこぼさずにクロの話ができるようになりました。

保健所にいたクロが我が家の家族の一員になった日のことから、前向きに生ききった日のことまでを振り返りたいと思います。

2010年頃から、地域の婦人会の人から「地域の野良猫のことで困っている」と相談を受けました。具体的には、「猫が次々と仔猫を産んで自宅への被害も出てきて、どうすればいいか」という相談内容です。早速、地元の動物病院の先生に相談しました。先生の理解と協力を得て、格安の値段で野良猫の避妊・去勢手術をしていただけることになりました。さらに、その他にもさまざまな心配事があり、『関西動物友の会』で活躍している友人に相談。親身に相談に乗っていただいた上、当会より避妊・去勢の助成金までいただけることになりました
(余談ですが、私は市民の要望を訴え続け、結果、昨年10月より野良猫の避妊・去勢手術に対しての市の助成制度がスタートしました)。

一方で、その友人より「四條畷保健所に4ヶ月間も譲渡犬としてホームページに載っているワンコがいる。できれば見に行ってほしい」と言われました。すぐに保健所に行きました。
職員が黒柴っぽい元気なワンコを連れてきました。クロとの初の対面でした。
クロを引き取ることに家族は大賛成!さまざまな手続きの後、クロは2012年2月、我が家に引き取られてきました。
男の子ですが、夏になれば特に雷が嫌いで、クロの甘えん坊と恐がりにはヘトヘトになりました。明け方まで雷が鳴り続いた時は、主人と交代でクロのそばにいたり、雷が恐くて玄関にオシッコをして暴れたり、当時は紐をつけていたので、噛み切ったりしたこともしばしばです。しかしこれまで、推定5歳のクロがいろんなつらい経験をした果てに、慣れない我が家に来たことを思うとかわいそうで胸がいっぱいになりました。
主人は朝晩何回もクロを散歩に連れて行きました。クロは外がとても大好きで、散歩好きなワンコだったのです。地域の中でも子どものみならず大人の皆さんに本当にかわいがってもらいました。クロを連れて旅行に行ったり、一緒にいろいろなコースの散歩をしたりと、クロの思い出を語ればきりがありません。

昨年から急にクロの足腰が悪くなり、白内障になったり、耳も聞こえづらくなったりと、人間の高齢化と同じように歳をとっていきました。物にぶつかったり、一生懸命立とうとして滑って脚をすりむいたり、でも、クロは声を出して鳴くことはなく、ただひたすらいつも前向きにめげずにがんばっていました。
クロは目が大きくて、私が帰宅して「クロ、ただいま」と言うと、いつも目を見て「おかえり」と言ってくれているようでした。

クロはさらに弱っていきました。そのころ、私は自身の病気が発覚し、入院・手術をしました。(詳細は3月5日3月6日の【みうら美代子の備忘録】をお読みください)。
私が留守の間、主人は早朝クロの世話をして出勤。帰宅してからは、クロの世話はもちろん、掃除などで大変だったと思います。私がいない間、クロは自身の老化に伴う不安と戦い、必ず帰ってくる家人を待ってくれていました。しかし、私の手術(心臓の弁置換手術)が成功し無事に退院してきた頃のクロはもはや限界で、おむつの生活になっていました。
私は退院しても開胸手術をしたため8キロのクロを抱っこしておむつ替えもできませんでしたが、主人のお姉さんに助けていただきながらクロの世話をしました。私も不自由、クロも介護状態。お互い思うようにならない日々でしたが、いつもクロと励ましあいながら、「私もがんばるね。クロもがんばってね」と声をかけていました。

11月18日、いつもより遅い12時ころまでクロの体をさすってやっていました。クロは息が少ししんどそうです。私のほうをずっと見ています。何か言いたそうにも見えました。でも、クロは絶対に死ぬわけがない、まだまだがんばると思っていました。
翌19日の朝5時、主人に起こされました。「クロが息をしていない」と。
私がクロの寝床に行ったときは、クロはもう冷たくなっていました。明け方までさすってあげたらよかった、ひとりぼっちで死なせて本当にごめんとクロに何度も謝りました。

 

クロは最後まで生ききった、本当に強くて前向きなワンコでした。

私たち家族は多くのことをクロから学びました。
クロが亡くなって4ヶ月。
最後の最後まで生きようとしたクロ。
これからは生涯私の心のなかに良い思い出として生きていると思います。

2017年

3月

12日

3月12日 環境フェスタin交野

久しぶりの晴天の交野市です。

12回目の『環境フェスタin交野』がスポーツレクリエーションセンターで開催されました。さまざまな団体と個人の環境に対する取り組みや展示、また環境をテーマにした超人アマノンガーアクションショーが発表されました。私は運営する側でしたので、裏方でがんばりました。

2017年

3月

06日

3月6日 みうら美代子の備忘録②

入院・手術

8月25日に入院となり、手術前検査を含め、必要と言われた検査や処置はすべて行って手術に備えましたが、なかなか手術日が決まらず一旦退院。後日、手術日が決まり、9月30日に再度入院しました。
10月5日、「絶対に元気になる!」と誓って手術に臨み、心肺を停止させての8時間40分の大手術を無事に終えて病室に戻ってきました。
胸の正骨を20センチほど切っているので、術後しばらくはベッドから起き上がるのが苦しかったのですが、3日目には病院の廊下をぼちぼち歩き、痛み止めもほとんど飲むことなく順調に回復していきました。

 

退院、そしてこれから…

10月18日、当初の予定どおり2週間で退院することができました。手術は大成功でした。
今、私の大動脈弁はウシの弁がついています。弁の上方の大動脈の一部もビニールでできた人工血管になっています。
いつ死んでも不思議でなかった私は、再び健康な体となって生かしていただきました。一旦立ち止まり、熟慮できる十分な時間をいただくなかで、これから議員としてどうあるべきか、またこれからの自身の人生のあり方・生き方について向き合っている最中でもあります。
病院では多くの高齢者が入院し手術を受けて、一生懸命前向きに生きようとしている姿を目の当たりにしました。そこから、病院で命を救われた方々が、今度は、それぞれの地域や家庭に戻ったときに、「生きていて本当によかった」と思える自治体を作らなければ、また老若男女問わず、夢や希望の実現を応援できる自治体を作るためにどうすれば良いかと新たな目標を見出しました。
今回の病を通して、多くの方々に支えていただいて今日の自分があるということに改めて気付き、心から感謝しております。この気持ちを決して忘れず、これからも、少しでも人の役に立つ人生を全力でがんばる決意です。

今後とも、みうら美代子をよろしくお願い申し上げます!!

退院後、大好きな「いきいきランド」のミルキーウェイを散歩しました。

野のさわやかな秋を堪能しました。

2017年

3月

05日

3月5日 みうら美代子の備忘録①

今日と明日は、昨年私が経験した“大動脈弁置換手術”について書こうと思います。

 

息ができない!病院へ搬送

昨年7月31日の夕方、用事を済ませ、JR忍ヶ丘駅に向かって5分ほどの距離を急ぎ足で歩いていた私は、うまく息が整わないまま駅前でしゃがみ込むように倒れてしまいました。
女性の声で「大丈夫ですか?」と聞こえて気がつくと、周りに数人の人と四條畷消防の救急隊員が私の顔をのぞき込んでいました。私は意識を失って路上で倒れていたのです。意識はしっかり戻りましたが体には力が入らず、結局、近くの畷生会脳外科病院へ搬送されました。

 

心臓大動脈弁狭窄症

脳や血管・血液などに異常はなく、その日は一旦入院。翌日に心臓のエコー検査をした結果、循環器の専門医より「心臓大動脈弁狭窄症に間違いありません。しかも、重症です」と告げられました。
それまで、毎年の人間ドッグでの心電図は異常なく、交野マラソンでは3キロコースを何度も走っており、とにかく専門医の言われたことに実感がわかないままでした。

 

仕事と命、どちらが大事か

重度の心臓大動脈弁狭窄症とわかってからも実感がわかなかったこと、参議院選挙直後ということもあり、石川議員をお連れして外部企業へお礼に伺ったり、市民相談、地域行事に参加したりと、慌ただしい毎日を過ごしていました。
そうこうしているうちに、8月16日に紹介状を持って吹田にある国立循環器病研究センターへ。医師からは、すぐにでも入院するように言われました。それでもまだ病状を甘くみていた私は、自身の仕事のことを伝え、9月議会が終わってからの10月に入院したいと呑気にかまえていました。すると「仕事と命とどちらが大事か」と言われ、重症と思っていない私を説得するために再検査をしてくださいました。
どれだけ重症だったかというと、大動脈弁は、健康な人は3平方センチほどあり、それが閉じたり開いたりしているが、当時の私の弁は、0.4平方センチしか開閉していないとのこと。また、弁そのものの形が判別できないほど石灰化していました。
つまり、体中に新鮮な血液を送る最後の弁が固く狭くなり、高い圧力が血管にかかってすごいスピードで血が送られている状態だったのです。突然死の可能性もあると言われ、ようやく、かなり厳しい状態であるということを理解しました。

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